岡田家は26代続いた旧家です。その歴史はなかなか興味深いものがあります。

 
 

 岡田家の始まり

 
岡田家のルーツ 横山時高という人物
 
 
横山時高が岡田家のルーツです。彼は京都三条の出で、室町時代の末期に後醍醐天皇に仕える蔵人でした。室町時代ですから500年くらい前ですね。
後醍醐天皇が滋賀に行幸なさった折、病に難儀されました。この時、同道していた横山時高が車前草(オオバコ)を煎じて献上したところ、たちどころに快癒したため、天皇は彼に相州岡田邑を領地として与え、また今後は車前草をもって家紋とするようにとのお言葉をいただきました。それ以後この家紋を使っております。
 
岡田家 初代
相州は今の神奈川県です。横山時高の息子が横山高久ですが、父が拝領した相州高座郡岡田邑に土着し、村名を名字として「岡田太郎高久」と改名しました。この人物が岡田家初代となります。

岡田家2代~11代

2代目から子孫が綿々と続きます。この間武士になり、関東管領や鎌倉公方、足利幕府に仕えたりしました。
 

 岡田家 栃木に移住する

 
 
岡田家12代 岡田長親
 
12代目 岡田長親は上杉氏に仕えていました。時は戦国時代、天文20年(1551年)上杉憲政は北条氏康に敗れ、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って越後に落ちます。
岡田長親は、主君と袂を分かって栃木に移住し帰農しました。最初は下野国梁田郡(今の足利市)の荒れ地を開墾しましたが、渡良瀬川が暴れるため、弟にその地を譲り、栃木市に移住しました。
息子の弥太郎と荒れ地の開墾に励み、江戸時代の初期 文禄元年(1592年)に病死しました。
帰農してから41年間、開墾に明け暮れた日々でした。
岡田家13代 岡田嘉右衛門
12代目の息子は幼名を弥太郎といい、成人して嘉右衛門と名乗りました。善良な性格で、実行力に富み、開拓に大変力を尽くしたため、開拓地は江戸時代初期に嘉右衛門新田村と名づけられました。
以来、岡田家当主は代々嘉右衛門と名乗るようになりました。
岡田家14代~18代
14代から18代は地域の中心となり行政の一端を担いました。嘉右衛門新田村は貞享2年(1685年)に畠山氏の領地となり、以後明治まで畠山氏の支配下にありました。岡田家は屋敷敷地内の一部を、畠山氏の陣屋役所や地頭の御殿に提供し、名主役を務め、日光例幣使の本陣となり接待をしました。現在も岡田家の前を通る道路は日光例幣使街道と言われています。
岡田家19代
19代の嘉右衛門はなかなか変わった人物でした。
21歳の時、壬生藩主鳥居丹波守の家臣、年寄役の高須蔵人方に3年間見習い奉公をし、壬生城に出入りしました。お殿様の食事に興味があり、毎日の献立を日記に記しました。そのメニューが現代によみがえり、壬生町の「お殿様料理」として町おこしの一助となっています。
 
 この本に彼の記録した献立が載っています。
 
岡田家に戻ってから24歳で家督を継ぎ、嘉右衛門を襲名しましたが、37歳の時に老母と妻と1歳の子供を置いて江戸に出奔し、栃木に決して帰ってきませんでした。江戸での生活は不明です。
岡田家20代
幼少時に父親がいなくなったためにたいへん苦労しました。4歳で嘉右衛門を襲名しましたが、14歳になるまでは、分家の岡田彦兵衛に仮名主を依頼しました。祖母や大叔母に助けられながら成長し、14歳になると陣屋に出仕し畠山氏に実直に仕え、また名主役としても信頼を集めていたそうです。勤勉な反面、絵画を学び、茶道、挿花、囲碁を趣味とし、花や竹林を植え、鳥や魚を飼う風流を好む人物だったそうです。病気で43歳で亡くなりました。

 岡田家の中興

 
 
岡田家21代
 
 
 
この写真の人物が、岡田家の中興と言われる21代です。父が若くして亡くなったため15歳で嘉右衛門を襲名しました。幼いころから利発だったそうです。江戸時代の文政3年から明治24年まで72歳の生涯で、激動の時代を乗り切り、岡田家を大いに盛り立てました。大変筆まめな方で、詳細な日記を残し。幕末から明治にかけての貴重な資料となりました。当家の資料を基に、国学院大学教授の田仲正弘先生の労作も出版されています。
商才があり、人付き合いも上手でした。この時代、豪農や豪商の娘を行儀見習いとして武家屋敷に預けることがよく行われていましたが、万里小路正房のつてで娘二人を大奥に送りました。また、ペリー来航の折には幕府に米千表を献上し、褒賞として蝋燭立てを下賜されました。
 
  

 翁島別邸の建築

 
 
岡田家22代
 
 
 
 
現在は外壁を修復中ですが、中は見学できます。
 
周囲を堀でめぐらし、まるで島のような土地に、当時としては長命な米寿を迎えた22代が住んでいたので、翁島(おきなじま)と呼ばれるようになりました。
有形文化財の指定を受けています。
 
22代は13歳で嘉右衛門を襲名しました。明治維新後、郵便局の開設、廻船業、戸長役を務めるなど、近世から近代への移行期に地域発展に寄与しました。
70歳で隠居所建設を思い立ち、3年の年月をかけて完成させました。
東京の木場で吟味した銘木をふんだんに使った大正建築の粋を凝らした建物です。
ヒノキの巨木を用いた。継ぎ目一つない一枚板の廊下は見事です。
 

 

 岡田石灰株式会社

 
 
岡田家23代
 
 
 
 
岡田家23代は石灰会社を設立しました。
栃木県の足尾銅山は有名です。古川グループの創始者である古川市兵衛が、辛苦の末足尾銅山を開発したのですが、同時に鉱毒問題が生じました。鉱毒を中和する石灰が必要ということで、岡田家にも石灰会社設立のお話が来ました。
明治32年個人事業として石灰製造業を開始しました。この会社は昭和25年に株式会社となりました。
 
 
 
岡田家24代
 
 
 
 
岡田家24代は石灰会社を継承しました。
趣味人で陶芸を学んだり、芸能を愛しました。
 

 岡田記念館 開設

 
 
岡田家25代
 
 
 
 
 
 
 
岡田家25代は石灰会社を継承しましたが、落盤事故をきっかけに会社を他社に譲りました。
時に「ディスカバージャパン」ブームで、地方都市にも観光客が増えてきました。
栃木市の要請もあり、昭和53年、岡田記念館が開設されました。当時は「旧家開放」と話題になりました。
岡田家の将来を考え、子供に医家の道を進むよう勧めました。
55歳で病気で亡くなった後は、妻の陽子が
館長を務め、令和7年3月まで岡田記念館を経営しました。
 
 
岡田家26代
 
 
 
 
岡田家26代は父の勧めによって医師を志しました。
岩手医科大学を卒業後、獨協医科大学病院で研修し、皮膚科専門医と医学博士を取得しました。
平成8年に栃木駅前でクリニックを開業、医療法人嘉真会を立ち上げ、地域医療に貢献しました。
日本臨床皮膚科医会の栃木県支部の会長を務め、令和6年には栃木県で初めて学会を開催するなど、栃木県の皮膚科医会の発展にも力を尽くしました。
令和7年4月に、長男がクリニックを継承したため、岡田記念館館長を務めることになりました。
岡田記念館をよりよく皆様に知っていただくために尽力する所存です。
よろしくお願いいたします!