「江戸城大奥」 といえば、 徳川将軍の後宮であり、 将軍とその生母、 御台所や、そしてこれに仕える御殿女中衆のみが占有する男子禁制の空間領域で、一種独特な豪華絢爛たる世界を連想させます。
江戸時代、 大奥へ上がる娘は、ほとんどが幕臣の子女でした。
しかし、数こそ少ないが豪農商の娘も 「大奥」 の奉公に上がっていたのです。 江戸近郊の富裕な人々の娘にとって、 大名屋敷や江戸城に奉公することは大きな魅力でしたし、また結婚前の一時期、 行儀作法や高い教養を習得するための女子の高等教育の意味合いを兼ねていたともいわれます。
当地、 栃木の旧家岡田家からも幕末期に 「美恵」 と 「るい」の姉妹二人が時期を異にして江戸城大奥にあがっていたことがわかりました。
二人の娘の父である二十一代嘉右衛門が当主の時代です。彼は筆まめの人でした。日記にその詳細が記されています。
万延元(一八六〇)年七月二十三日、嘉右衛門は、長女美恵が一、二年「御殿奉公」したい旨の希望を、領主である畠山氏の用人西山靭負(にしやまゆきえ)へ伝えました。西山靭負の娘おのぶは、大奥の上﨟年寄万里小路(までのこうじ)に仕えていたのです。
西山のつてで、大奥の御年寄、御手御中臈(おてつきちゅうろう)のお力を借り、「御城ご奉公」が実現しました。
こうした嘉右衛門の働きによって、次女「るい」も大奥の「御城ご奉公」が叶いました。
二人とも三年ほどご奉公し、栃木に帰って良縁を得たとの事です。